デザインに心躍る日々

フリーディアマンションの外観やエントランスに生きたデザインを施す建築デザイナー
「リアルクリエイション」の中島氏が「人の笑顔を生み出すひらめき」をテーマに日々を綴ります。

究極の普通

2012年02月27日

究極の普通・・・

変な言葉ですね。

普通なのに究極とはこれいかに?

こんにちは。リアルクリエイションの小島です。

さて、最近よく「究極の普通」のことを考えています。

昔は「普通の人」について、よく考えていました。

かれこれ10年も前の考えですが・・・

「普通の人たち」ではありません「普通の人」です。

つまり一人ですね。全世界でたったひとりの普通の人です。

究極に普通の人です。

 

当時、よく「普通の人」と呼ばれると、ネガティブな印象と人は捉えることに

興味を持ったのが始まりです。

それでも、日本人の性質上

「いえいえ普通です。」と謙遜することもありますが、

これもある意味、自分を落としている事なので、

やはりネガティブな言葉になっていると

捉えたほうが良いでしょう。

 

まさにそこが不思議で、「普通」とはそもそも中くらいといった意味で、

可もなく不可もないということなので、ニュートラルな印象でないとおかしいのに、

少しネガティブな印象があるのはなぜでしょう?

 

そこで、当時考えていたことが、そもそも「普通」が個性的でないという基準が

どこから生まれたのだろう?ということでした。

 

例えばです。

究極の普通の人を考えてみることにします。

地球上の人間全ての中の究極の普通の人が、必ず存在しています。

どこの誰だかは分かりませんが、

背丈も全人口の中でちょうど真ん中の人間、

体重もそう、年齢もそう

知能もそう、運動能力もそう。

年齢もそうです。

必ず存在しています。

究極の普通の人間が。

その一人を見つけるために、

とてつもない情報量の審査機関がいるのがネックですが・・・

・・・どうですか?まさにレア中のレアだと思いませんか?

これはもう究極の個性と言ってよいでしょう。

ただし・・・です。

ここに時間の概念が加わると、

一人誕生するたびに、一人死亡するたびに

めまぐるしく「普通」の順位が変わることになるので、

今この瞬間に「究極の普通」の人になっても、

どこかの国で、誰かが生まれれば、

次の瞬間にはどこかの誰かに「究極の普通」を譲り渡す事になるのでしょう。

少し話がそれました。

その究極の普通に瞬間でも選ばれた人は、一体どんな人だろう・・・と想像してみました。

おそらく・・・

かっこよくもなく、かっこ悪くもなく

目立つわけでもなく、地味というわけでもない。

頭が切れるわけでもなく、鈍いわけでもない。

運動神経抜群というわけでもなく、運動音痴というわけでもない。

いい人と呼ばれるわけでもなく、悪い奴とも言われない。

好印象というわけでもなく、悪印象というわけでもない。

・・・どうでしょう?

こう言葉を並べるだけでも、ものすごく不思議な気分になる人間です。

むしろ興味が、俄然湧いてきます。

何かこう・・・味のある人間じゃないかとか、考えてしまいます。

でも味があるわけでもなく、味がないわけでもないわけですが(笑)

 

なぜ興味が湧くかと言いますと、まったくつかみどころがなさそうだからです。

変な話ですが、魅力あるわけでもなく魅力がないわけでもない人のはずですから、

「普通」ということに魅力を感じるはずがありません。が、しかし、

何かいいようもない魅力を感じてしまうのです。変な話です。

勝手なイメージですが、なにか普遍的で、そばにいてまったく苦痛とか感じないだろうな・・・

と、思ってしまいます。

とにかく不思議な気分になります。

さて、そんなことを10年前に考えていたことを、最近やたらと思いだしまして・・・

そう、これまでは究極の普通の人間を考えていたのですが、

建築デザインにおいて、究極の普通とはどういったものだろう?

ということを、つい考えてしまったからです。

でも確かに存在しているはずなのです。

この地球上のどこかに。

究極の普通な建物が・・・

 

そう・・・

かっこいいわけでもなく、かっこわるいわけでもない。

機能的というわけでもなく、不便というわけでもない。

存在感があるというわけでもなく、存在感がないということもない。

コストがかかっているというわけでもなく、安普請というわけでもない。

安全性が抜群というわけでもなく、危険というわけでもない。

うるさいというわけでもなく、静かというわけでもない。

 

 

・・・究極ですね。まさに究極に普通なデザインです。

しかし、やはり究極は究極なんです。

究極というものは、どちらか一方によったものが、

本当の究極ではないのかもしれません。

究極に曖昧なものが、究極の極みではないか?

と、最近思います。

 

 

建物も人間と同じで、どこかで建てられたり、壊されたりすれば

究極の普通のデザインも推移していくわけですが・・・

まぁそれはどうでも良いですね。

 

やはり私は、上で書いたような特徴の建物は、

どこか魅力的に感じてしまうのです。

もうこれは潜在的な何かかもしれません。

 

・・・と、この「究極の普通」をいつか目指してみたいと

最近は、とみに思います。

意図的に生み出す「究極の普通」

こんな難しいものはないと言っても過言ではありません。

想像するだけで、気が遠くなりそうです。

しかし、目指してみたい。

なんとなくですが・・・

究極に曖昧なところに・・・

そこに・・・

その領域に「ビートルズ」がいるような気がしています。

 

ビートルズのメロディは、

究極に曖昧な何かを醸し出している気がしてなりません。

ビートルズは何が良いのかよくわかりません。

わからないけど、何か良い。

よくそういう風に言われる方に会います。

自分もまったく同じ意見です。

きっと人間の、何かよくわからない部分を刺激され、

あれだけの人を惹きつける事ができるのではないかと思います。

 

そう、人を惹きつけるのであれば、それはもう普通ではないですね・・・

 

つまり究極に「普通」を表現出来れば、それはもう「普通」ではなくなるということです。

「個性」でもありません。たぶんそれを表現する言葉がありません。

きっと、普通も極めると、「何か」に昇華するのでしょうね。

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